[メモ] 今日考えたこと

 分からない。いろんなことが分からない。分かるっていうことすら分からない。分かるって何なんだ。例えば山を分かる、って一本一本の木の状態をすべて把握していれば分かるっていうことなんだろか。でもその一本一本の木の葉の状態、その葉の葉緑素の状態、葉緑素の分子の状態まで把握してなきゃ分かってないっていうことじゃね? キリなくね? とか、よく音楽をジャンルで判断するな、ていうこと言うけど、その例えばそのジャンルのアーティスト一人、アルバム一枚、曲1曲の構成要素を完璧に把握することって作者にも不可能で、ジャンルでもアーティストでもアルバムでも曲でも結局のところとらえどころの無さ、っていうのは残り続けるわけで、じゃあつまりはすべては暫定的に「分かってる」っていうところを切り出していかなきゃ何も言うことができなくなる。神じゃないんだから、すべてを把握するのは不可能。とはいえ、じゃあ独我論で、すべては自分が暫定的に言っていい! ていうことに極端に揺れ戻るのもどこか不自然で、でもその間の明確な規範みたいな線ってどこにあるんだろう。その線を引くのも結局暫定でまた独我論に退行しちゃうのかよ! っていうことをぼんやりスポーツジムの踏み台昇降運動しながら考えてました。
 「分かる」っていうことで思い出すのが、大学のときのカントの道徳か何かの授業で、品の良いお爺ちゃんの先生が、「フフフ、カントのこういうところ面白いですねぇ、フフフフフ」ともうこらえきれないっていう感じでずっと楽しそうに笑いながらやってたことで、テキスト自体は自分の未熟もあり難解過ぎたんだけど、この難解なテキストの面白さっていうのはその授業で伝わってくるものがあり、鋭く印象に残っている。ああ、こういうのを分かってるっていうんだ、っていうのが何となく頭にある。やっぱり、そういう面白さ、楽しさを人に伝えられる、っていうことがひょっとすると、その線なのかな、とも思う。でもそこに自意識やら他意識やらが混じりこんできていろいろややこしくなるんだけど。
 なんとなく、「ドーナツの穴」存在論に近い質感があるよなこの考えって。ドーナツの穴は存在してるのか、存在してないのか、いかに? っていう。結局のところ、言語的には「ドーナツの穴」は存在してて、物理的にはドーナツの穴に存在物は存在していない、QED.って言えば言えちゃうけど、そこで物ごとを分割して分かったような気になるけど、それって分かったことになるのか? っていう疑問をずっと持っている。それで「ドーナツの穴」的な疑念そのものを終わらせちゃうのって、はっきりいって楽しくない。面白くない。そこに最初に持った疑念の感じの方がずっと面白くて、感覚的にそっちの方を支持したいな、と自分は思ってるところがある。かといってやたら抽象的な議論を重ねるためだけの抽象的議論もはっきり言って無駄だよな、と思うところもあって、ウウ結局俺がドーナツの穴か、と思ってしまうわけでわけが分かりませんね。まあそういうことを考えつつ生きとるわけです。